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[クリニックインタビュー] 2010/07/16[金]

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大学病院が医療の最先端とは限りません。患者のこと、地域のことを第一に考えながら、独自の工夫で医療の最前線に取り組んでいる開業医もたくさんいます。そんなお医者さん達の、診療現場、開業秘話、人生観、休日の過ごし方、夢などを、教えてもらいました。

第74回
清川病院 安田清美先生

祖母を診る医師の「探り当てる力」を目の当たりにして

 僕は山口県の出身です。親は二人とも地方公務員で、医療とは全く縁のない家庭に育ちました。成績はわりと良い方だったので、「将来は官僚に」なんて両親は思っていたんじゃないかな。そんな僕が医師という職業に目を向けるようになったのは、高校1年のとき。祖母の死がきっかけでした。
 祖母はそのとき80歳を過ぎていたのですが、足の骨折をきっかけに体力がぐんと衰え、入院せざるを得なくなりました。そして約半年後に亡くなるのですが、その直前の検査で、実は胃に大きながんがあることが分かったのです。当時よりずっと医学が進歩した今でもそうですが、お年寄りが怪我をきっかけに一気に体力を失い、そのまま老衰で亡くなる、というのはそんなに珍しい話ではないですよね。当時僕たち家族もそう思っていたのに、一人、お医者様だけが「何かおかしいぞ」と調べてみると、実は胃がんだった…この事実が僕に、医学に目を開くきっかけを与えてくれました。何と言うのだろう、表に見えないものを探り当てるサイエンスの力、医学の力、その魅力に気付かされたんです。

防衛医科大学校に入学

 そんな経験を経て、大学は医学部を受験することに決めました。親は直前まで「本当に医学部でいいのか?」と言っていましたけれどね(笑)。そして、縁あって防衛医科大学校に合格。故郷を離れ、一人、埼玉県へと出ることになりました。
 ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、防衛医科大学校はかなり特殊な大学です。何しろ6年間を全寮制で過ごし、軍事訓練も受けなければなりません。学費免除はありがたいことですが、その分制約も多い。例えば、髪型は短髪がきまりだし、制服着用も義務づけられています。若い男性の長髪が流行の時代でしたが、もちろん、とんでもない(笑)。まあ、かなり堅苦しい大学生活ですよね。でも、大学に入ったという安心感から勉強そっちのけで遊びに夢中になってしまう‥そんな誘惑に巻き込まれることもなく、半強制的とは言え医学の勉強に集中出来たことは良かったと思いますね。
 防衛医科大学校生には、卒業後9年間、防衛庁(現防衛省)関連の医療機関で働かねばならないという義務があります。僕も1982年に卒業し、研修医を経て、九州の自衛隊病院や母校の防衛医科大学病院で勤務につきました。その中で、やがて、大きな進路変更をすることになったのです。

民間への転身を決意させたもの

 1990年、僕は、東京・杉並の清川病院へ転出しました。防衛医科大学校出身者としての義務年限を、2年残した上での決断です。このような場合、これまでにかかった学費等の残額を日割り計算で算出し、防衛庁に全額返還しなければいけませんから、この決断はそれなりに大きな決心を伴うものでした。そのきっかけになったのは、一人の先生との出会いだったのです。
 防衛医科大学校での僕の恩師の、更に恩師に当たる先生に、東京大学の飯野先生という方がいらっしゃいました。肝臓病研究の第一人者で、清川病院とも関係が深かった方です。僕は87年から週に1度、清川病院に非常勤勤務をしていまして、そこで飯野先生から「清川に移って来てはどうか」というお話を頂いたのです。ちょうど清川病院が肝臓病治療に力を入れていこうとしているときで、若い医師が求められていました。僕も専門は肝臓病です。よし、新天地で奮闘してみようと決心したんです。
 それからの毎日は、今思い出しても気が遠くなるほど多忙なものでした。何しろ、清川病院で毎日めいっぱい患者さんの診療に当たりながら、週に1度ないし2度、東大の第1内科にも通っていたんです。飯野先生の推薦で研究生となり、最新の肝臓病治療の臨床研究に取り組んでいました。やがて飯野先生が聖マリアンナ医科大に移られた後は、僕も同じ聖マリアンナ医科大の研究室に移り、合計で約12年間、診療と研究の二重生活を続けることになりました。何しろ本当なら家で休める日に研究活動をしているのですから、体力的にはものすごくきつかったですよ。でも、日本のトップクラスの研究者と共に最先端の研究が出来るのですから、気持ちはこの上なく充実していました。また、この時期に多くの第一線級の先生方の知己を得たことも、かけがえのない財産となりました。

マニュアルよりも、目の前の患者さんを


日本で初めて患者さんにインターフェロン投与を行ったのは、実は清川病院。94年の建て替え時に記念碑を建てた。

 そうやって、毎日の診療と臨床研究の両面から得たものをフルに活かして、今、病院長になってからも、僕は日々肝臓病の診療に当たっています。
 ご存じの方も多いと思いますが、肝臓の病気には大きく分けて二つの種類があります。B型肝炎やC型肝炎のようなウィルスが原因のものと、飲み過ぎや食べ過ぎなど、生活習慣から来るもの。そのどちらを診る場合にも、個々の患者さんの状態をよく見極め、柔軟に対応していくことが最も大切です。この考え方を、僕の、そして清川病院の診療の根幹としているんです。
 どういうことかをもう少し詳しくお話ししますと、まず、ウィルス性肝炎の場合、C型慢性肝炎を例にとれば、現在インターフェロン(リバビリン併用を含む)という治療薬が治療の中心です。でも、マニュアル(添付文書)通りの用法容量を処方していればそれで良いかと言うと、必ずしもそうではないのですね。場合によっては既定の投与期間を過ぎた後でも、いましばらく処方を続けた方がより高い治療効果が得られるといったように、患者さんごとのさじ加減がとても重要になります。
 また、アルコール性肝障害、脂肪肝のような生活習慣から来る肝臓病の場合には、「今日からお酒を一切やめて下さい」「すぐに5キロ減量をして下さい」と言っても、なかなか患者さんはそれを守ることは難しい訳です。そういうときには、いきなり教科書的に一気にお酒断ちを強要するのではなく、「最初はこのくらいなら飲んでもいいですよ」と、まず節酒をベースに治療をしていくとか、「今以上に体重を増やさないよう気をつけるとともに、毎日体重計に乗ることを心掛けて下さい」とか、…ここでも、患者さん個々に合わせたさじ加減がとても大切になって来ます。
 もちろん、基礎・臨床研究から導かれた標準データは頭に入っていますよ。でも、だからと言って、「データでこの数値になったからもう投薬を止めてもいい」といった、通り一編のマニュアル化した治療では充分ではない。「データではこの数値だけど、実際に患者さんはまだこういう状態だから、もう少し投薬を続けよう」そういう風に、常に目の前にいる患者さんをしっかりと見つめて治療に当たること。これを清川病院では心がけています。

バランス感覚を大切にしたい


新設のリハビリテーション室には最新の機械が並ぶ

 2008年から、僕は、清川病院の病院長職に就くことになりました。清川のベッド数は84床。一般急性期病院として、内科単科ですが、東京都の二次救急医療機関の指定も受けています。ちょうど中小規模病院と位置づけられる病院であり、その診療から経営まで、全責任を負うことになった訳です。
 病院長になってからつくづく思うことは、僕らのような中小規模病院にとって、マンパワーが非常に重要であるということです。大病院であれば高額で高性能の機械を使うことで処理出来ることも、中小規模病院では医師や職員の力量に頼って進めていかなければなりません。でも、その分、小回りが効くという利点もあり、たとえば医師は患者さんと長い時間話ができるし、各スタッフも一人一人の患者さんのお顔をしっかり把握して、治療・処置に当たることになります。それは中小規模病院の大きなセールスポイントでもある訳です。
 そして、このようにマンパワーに頼る部分が大きいということは、それだけ、病院長としての僕の責任も大きいのだと思っています。だって、スタッフにとって、ここが誇りを持って働ける場所、心から喜びを持って働ける場所でなければ、モチベーションは低下し、知らず知らずのうちに患者さんへの対応に影響してしまう訳ですから。
 そうならないために、どうすれば良いのか? 僕が心がけているのは、風通しの良い組織を作ることです。年齢やポジションに関係なく、自由に意見を提言出来る組織。だから僕は、病院長だからと言ってふんぞりかえったりはしません。「もうちょっと威厳を持って」と言われることもあるくらいですが(笑)…、こまめに院内を動き回り、気軽に医師や職員たちと話をするようにしています。
 でも、だからと言って、いつも和気あいあい、仲良く接していれば良いという訳でもないんですね。「今は同僚のように、同じ目線に立って話を聞くときだ」「今は経営者として、一歩引いた視点で話を聞くべきだ」と、状況によって対処の仕方は変わります。診療と同じく、経営者としてスタッフと向き合うときも、優れたバランス感覚を持たなければいけないと考えています。
 また、経営者として、病院の経営を安定させつつ、地域の皆様のニーズに応えられるような事業を、常に念頭に置いています。
 たとえば昨年末に立ち上げた回復期リハビリテーション病棟もその一つ。地域の患者さんたちの間から、長期リハビリテーション治療のニーズが高まっており、思い切ってベッドの3分の1あまりを充てることにしました。専門のリハビリテーション室も開設して、新しい機械を幾つも導入しています。
 診療、経営、地域貢献‥様々な要素を慎重に検討して、時には大きな経営判断をすることも、病院長の重大な責務だと考えています。

筋金入りの「メカオタク」、iPadはもう…

 そんな僕の毎日の息抜きは、パソコンと、ペットのビーグル犬と過ごす時間。パソコンは、大体1年に1台の割合で自作機を作るくらいのオタクで、家には作っただけで使っていない新旧のパソコンが、10台ほどころがっています。最近話題のiPadも発売直後に買って、もう大分飽きて来てしまいました(笑)。
 犬は、大切な家族の一員です。朝か夜、或いは両方の日もありますが、必ず一緒に散歩に出かけていますよ。「うちの家族は、妻と娘二人と息子一人」とよく言っているんですが、この”息子”が雄のビーグル犬。そんな存在ですね。
 実は20代からゴルフが趣味の一つだったのですが、最近はやはり忙しくてなかなかコースに行くことが出来ません。打ちっ放しで練習するくらいですね。
 ゴルフと言えば、清川病院のすぐ向かいには、ゴルフの名門校・杉並学院があります。杉並学院と言えば、石川遼くん。僕はここの学校医をしていることから、ゴルフ部の合宿前の健康診断も担当していましてね。在学中、遼くんが清川病院に予防接種をしに来たこともありますよ。
 遼くんに限らず、他にも何人か有力なアマチュアゴルフ選手と知り合いになる機会があって、何故か僕はゴルフと縁が深いんです。テレビでトーナメントを見るのもいい息抜きになりますね。
 こうして多忙な毎日を送り、時には苦労もあるけれど、医療というのは結局、人が最後の最後のところで頼るところ。どんな人でも、病気になれば最後は医療従事者に頼るしかないんですよね。だからこそ、清川病院で働く一人一人のスタッフが、強い誇りと責任感を持って患者さんのために働ける環境を築き上げたいと思いますね。

取材・文/西本摩耶(にしもと まや)
フリーランス・ライター。広告代理店勤務を経て、2007年より独立。ビジネス人インタビュー、広告業界関連書籍など執筆多数。近著は『プレゼンのトリセツ』(ワークスコーポレーション刊、共著)。

医療法人静山会 清川病院

医院ホームページ:http://www.kiyokawahosp.or.jp/

JR中央線高円寺駅から徒歩8分。
南口PAL商店街途中を右に曲がり、西友を右手に見て直進した左側。静かな住宅街の中に建つ。
詳しい道案内は医院ホームページから。

診療科目

内科・神経内科・呼吸器科・消化器科・循環器科・皮膚科・肛門科・放射線科

安田清美先生略歴
安田清美先生
1982年 防衛医科大学校卒業
1982年 防衛医科大学校付属病院及び自衛隊中央病院にて研修医
1984年 自衛隊福岡病院内科勤務
1987年 防衛医科大学校第2内科勤務
1990年 清川病院勤務(その傍ら1990-94年 東京大学医学部第1内科研究生
1994年-1997年 聖マリアンナ医科大学内科学・臨床検査医学研究生
1998年-2002年 聖マリアンナ医科大学消化器・肝臓内科非常勤講師)
1995年 清川病院内科医長
2002年 清川病院副院長
2008年 清川病院病院長


■資格・所属学会他
日本内科学会、日本肝臓学会、日本消化器病学会、日本臨床薬理学会



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