第34回 開業医だった父に憧れて
[クリニックインタビュー] 2009/09/18[金]
大学病院が医療の最先端とは限りません。患者のこと、地域のことを第一に考えながら、独自の工夫で医療の最前線に取り組んでいる開業医もたくさんいます。そんなお医者さん達の、診療現場、開業秘話、人生観、休日の過ごし方、夢などを、教えてもらいました。
第34回
八代耳鼻咽喉科
八代利伸院長
開業医だった父に憧れて
僕は、小学校の頃は学校の先生になりたかったんです。ただ父がこの医院を開設してずっと開業医として働いていたので、その姿を見ているうちに、中学から高校にかけて、だんだん医者になりたいと思うようになりました。父が地域の人たちに尊敬され、感謝されたり、慕われたりしている姿を見て憧れてたんですね。
それでも大学を卒業するまでは、特に耳鼻科を目指していたわけではないんです。大学に入学した最初の頃は授業の雰囲気も普通の学生とまったく一緒で、僕はスポーツばかりしていました。3年生からだんだん医者らしい勉強が始まり、5年生6年生で、臨床実習があります。「ポリクリ」って言うんですけど、実際に患者さんを担当して診ていくわけです。初めて実際の医療の現場に立つことになったので、そこで触れ合った患者さんたちのことは、学生時代のなかでも特に思い出深いです。たとえば白血病で入院している若い女の子。僕らとほとんど年齢が変わらないのに、近いうちに確実に死が訪れる。そういう現実に触れることによって、医者としての自覚が生まれてきました。
そうして卒業前にいくつかの科をまわったときに、進路として精神科と耳鼻科と泌尿器科で悩み、最終的には自分の見てきた父の仕事や、医局の雰囲気などに影響をうけて耳鼻科を選びました。私が卒業した慈恵医大は日本で始めて耳鼻科を開設したところで、非常に伝統があるんです。だから教室の勢いがすごい。医局で先輩方がバリバリ働いている姿を見て心を動かされましたね。
大学病院から開業医へ
大学を卒業した後の2年間は研修医です。今は全科を回るような形ですが、当時はすぐに自分の希望する専門の医局に入り、人事にしたがっていろいろな病院で働くことになります。僕はまず麻酔医として研修が始まりました。耳鼻科というと開業医のイメージがあると思うんですが、頭頸部外科なんです。つまり鎖骨から上の脳と目と歯を除いた部分の手術が中心。中耳炎や蓄膿症の手術もしますし、癌の手術もあります。忌野清志郎さんがかかった喉頭癌や、食道癌、舌癌などです。ですから麻酔の技術は非常に重要なんですね。開業医になると、あまり手術はしなくなるので、病院と開業医では耳鼻科のイメージはまったく違うんですよ。

それから大学病院に勤めていると「研究班」に入ります。僕はそこで眩暈(めまい)について研究していました。僕の世話になった方に、航空宇宙医学を研究していてNASAに繋がりのある先生がいて、その関係でアメリカのボストンにあるブランダイズ大学に2年間留学したんです。宇宙飛行士にとって眩暈(めまい)とか平行機能の研究はとても大事なので、宇宙航空医学というのが耳鼻咽喉科の分野のひとつとしてあるんです。実験で高重力と無重力状態での目の動きとか、いろいろなデータをとるんですね。普段はラボの地下にある遠心力を利用した機械を使っていますが、1年に1回か2回はNASAのジョンソンスペースセンターというところに行って、航空機を使ったパラボリックフライト(放物線飛行)で無重力の実験をしていました。
帰国してからはまた大学病院で講師として働いていましたが、その頃に父が膵臓癌で急死したんです。1年ほど入退院を繰り返していたのですが、急に医院を閉めてしまうと患者さんが困るので、僕が週に1回だけ診療をすることになりました。そうすると患者さんから父の話を聞くわけですよ。父の病気のことを聞いて泣き出す患者さんもたくさんいました。しみじみと「父親は偉大だったんだな」と思いましたね。僕は医院を継がなくてもいいと言われていたので、ずっと大学病院勤務を続けるつもりだったんです。仕事は充実していましたしね。だから最初は父がいなくなるなら、ここは廃止してしまおうかとも考えました。でも1年の間ここで診療を続けて、父のことを心から慕ってくれている患者さんたちの姿を見ているうちに気持ちが変わり、大学を辞めてここで働いていく決心がついたんです。
患者さん自身が納得のできる治療
留学していたときは別にして、大学病院では研究だけではなく臨床医として患者さんを診ていましたし、第一線の病院に出張することもありましたから、開業医となっても、まったく違う仕事という感じはしませんでしたね。
診察の際に大事にしているのは患者さんに対する説明です。僕は教師になりたかったくらいなので、性格的に人に説明するのが好きなんです(笑)。たとえばファイバースコープで患部を見せながら診察して、写真も撮っておきます。その写真をパソコンの画面で並べて見せると、治っていく様子が一目で分かってもらえます。滲出性中耳炎などは治療に3ヶ月くらいかかったりする。そうすると患者さんは「いつまでたっても治らない。本当に必要な治療をしてるのか?」と考えてしまいます。特に子供の患者さんの場合、お母さんがとても心配されます。他の医院に通っていて、治らないからうちにきたという患者さんもいっぱいいますが、実際に患部を見せて説明すると、きちんと治療されていることが分かってもらえるんですね。それを理解してもらったうえで、続けてうちに通ってもいいし、遠ければ元の病院に通うようにすすめることもあります。

大学病院にいたころは眩暈(めまい)を専門に診ていましたが、そこでも病院に対して非常に不信感を持った患者さんがおおぜいいました。その人たちに信頼されるために、どういう風に説明すれば理解してもらえるだろう?と工夫していたのが役立っています。患者さんに治療の内容を丁寧に説明することで、同じ薬を使っていても、説明のない病院よりも治りが早くなるんです。ですから診察に際してはよく説明して、患者さん自身にも治療に参加してもらうのがモットーですね。
それから慈恵医大の創設者・高木兼寛先生が建学の精神として残した「病気を診ずして病人を診よ」というメッセージも大事にしています。同じ病気でもAさんには喜ばれて、Bさんには喜ばれない治療がある。患者さんひとりひとりに合わせて、喜んでもらえる治療をするように心がけています。
目指すのは地域の人に慕われる医師
僕自身は入院するような大きな病気はしたことがないんです。特に健康のためにしていることもなくて、若い頃はスポーツをバンバンやっていましたが、今はまったくしてないですねぇ。一時期、高脂血症になったりしたので、食事には気をつけるようにしています。ストレス解消は旅行ですね。僕は温泉でも海外でも、とにかく旅行が大好きなんです。今はなかなか長い休みがとれないので、大きな旅行はめったにできませんが、週末などはよく関東のあちこちに出かけていますよ。嫁さんと車で行けるとこまで行って、なんのへんてつもないビジネスホテルに泊まって、夕食はその辺の居酒屋ですませて。そうやって知らない町を歩くことがリフレッシュになっています。
今後は工事中の移転先や行政上の問題などがあって、なかなか実行できないのですが、建物の改装をしたいと思ってます。父の代からずっと同じ建物なので、もうずいぶん古いんですよ。ファイバースコープにしろ、画像ファイリングシステムにしろ、待ち時間確認システムにしろ、中身のシステムは最新型なんですけどね。
ここでは新しい技術や治療法を研究することもなく、今まで得た経験のなかで淡々と診療を続けていくだけですが、10年前に母親に連れられてきた子供が、今では結婚して自分のお子さんを連れてきたりすると、地域の人たちのなかで働くことの楽しさを感じます。いずれは父のように地域の人々に心から慕われる医者になるのが目標ですね。
編集者として10年間出版社に勤務した後、独立。フリーライター・フォトグラファーとして、心身の健康をテーマに活動中。理想的なライフスタイルの追究をテーマに執筆を手がけている。
八代耳鼻咽喉科
医院ホームページ:http://www.myclinic.ne.jp/yashiro_ent/pc/
左が患部の画像をまとめたデータベース、右が携帯からも利用可能な予約システム。
京浜東北線西川口駅西口から徒歩6分。詳しい道案内は医院ホームページから。
診療科目
耳鼻咽喉科
八代利伸(やしろ・としのぶ)院長略歴
昭和52年 埼玉県立浦和高校卒業
昭和59年 慈恵医大卒業
平成 6年 米国ブランダイズ大学留学
平成 8年 帰国
平成 9年 慈恵医大耳鼻咽喉科講師
平成11年 現在地で開業
■役職等
医学博士、日本耳鼻咽喉科学会認定専門医、川口医師会理事
■所属学会
日本耳鼻咽喉科学会、日本めまい平衡学会、日本航空宇宙環境医学会
- めまいに関する
- 中耳炎に関する
- この記事を読んだ人は
他にこんな記事も読んでいます。
掲載されている記事や写真などの無断転載を禁じます。